神様オネガイ、、、
女子高生コンクリート詰め事件の主犯格が殺人未遂の再犯で逮捕されたという記事を読み、併せて少年法でどこまで保護するするのかという問題と死刑制度の是非についてまたネット上での議論が活発になっているとのこと。この種の是非について様々な意見・見解があり、ケースバイケースの結果論になってしまうので、どれが正解とは一概には言えないのでしょう。
今回は凶悪事件の再犯という結果を見て、やはり少年といえども当時もっと厳しく処罰すべきだった、死刑にしておけばこんなことにばらなかった、という意見が優勢なのでしょうか。
しかし、仮にそういった少年が、溺れている子供を助けた、などの善行で話題になっていたら、おそらく多くの人はやはり少年法で保護して健全な未来を潰さなくてよかった、と感じると思うのです。これも結果論に過ぎず、結果を見るまでは是とも非とも言えない性質のものだと思います。
どのような制度を国として設定しておくか、という線引きの問題で、制度や法律による線引きは、絶対的な正しさを決めているのではなく、決められない事に”ここまで”、”ここが分かれ目”と線を引いて個々に対して行う判断の基準とする、という意味合いだと思うのです。
正しさを求めるといつまで議論しても基準となる線引きが出来ないので、批判や例外、弊害の存在と可能性を承知の上で線を引いてしまうしかない、それが法律の役割であり、限界ではないでしょうか。。。
と、こんなことを思って記事を読んでいたのですが、
故三原 順さんの漫画、「はみだしっこ」に印象的な記述があったのを思い出しました。「人が人を罰するなんて思い上がり甚だしい、どうせ人間が他人に対しできる事なんて大した事はできないのだから、他人を救おうなんて所詮無理な話で、だから自分たちの手に余るやつは神様にお救いくださいってお祈りして神様の元へ送ってるじゃないか。」
というような内容だったと思いますが、死刑によって処刑・処罰してるんじゃなく、人の手ではもう救済できない、社会で共存するために私たちに出来ることはないからと、神の手に委ねる—もしかしたら厚生させられたかも?犯罪者にも人権がある、だけど私たちたかが人間なので、それは分かっていてるけど、もうどうしたら良いかわからないの、神さまオネガイ。
どの時点でオネガイって諦めるのか、その線引きはやはり不完全だろうが不公平だろうが法によるしかないのでしょう。
(私は決して死刑賛成だとか反対だとか、少年法の是非云々だとかが言いたいわけじゃないので誤解されませんよう^^; そういうことは専門の方々にお任せします、一市民の私の手には余る議題です)
職場でもよく結論の出しようのない問題に、やんややんやと騒ぎ立てては結論出せずに(あたりまえだわw)ぐだぐだやってるのを見ていると、神様オネガイと言いたくなってしまいますね。
仕事しない言い訳にクソみたいな水掛け論で職務妨害してる某女ジャイアンとかね、、、フッ
そんな日常のストレスを喚起させられてしまった記事でした。明日はまたそんな仕事場へ戻らなければならぬぅorz