ヴォイド・シェイパシリーズ -森 博嗣-
先ごろ、このシリーズを読んでいないことに気付いて大人買い(ヤッター!)
で、読み始めて 既にヴォイド・シェイパとブラッド・スクーパは読んでいたことに気づく(orz)
また、忘れてたのか。。。自分。
ちょっと記憶力の低下を意識し始めてローズマリーやらイチョウ葉エキス入りのガムやらカカオパウダーやらの積極的な摂取を考え始めたところだけど、はぁ、やっぱり記憶力低下してる。。。
でも20代前後で『羊たちの沈黙』の文庫版を気づかずに3回買ってたことを思えば
なんのこれしきの健忘は昔からか。
追憶は彼方に押しやるとして、
感想というほどではありませんが、これも忘れないように備忘録として読中読後の主観をメモ致します。
徹底して主体のみで語られた技法から不自由さを感じるほどにも徹底されて、またその不自由さが主体であるゼンの不自由なまでの真っ直ぐな人格と思想を表現するのに効果的に用いられていて、作者が森さんなだけに、「ここも計算のうちなんだろうなぁ」ってため息。
偶然、とか結果的にってことはないでしょうね。
そして今回というか本作では”肉体の消失”と”知識の継承”が変わった角度から描き出されています。
物理的な消失に替えて、”無”という禅の思想と通常のインテリジェンスの代わりに”技”という体得技術の継承に焦点が。
一般的な知識の場合は、現代では書き残すことが出来る、記録を残すことである程度後世へ継承が可能になった。
もちろん、その知識をもった人間が何百年も生きて研究や思考を続けることにくらべたら、失うものも多く、誤解や消失の危険性もつねにつきまとうけれども、それでも体得した技の継承に比べれば、受け継がれて後世の礎になっていくであろうことは確率的にずっと高い。
では体得した技術・技の継承はというと、やはり次の世代に同じだけの技術を体得させ、さらなる継承と発展を願うという甚だ心もとない伝承方法に頼るしかない。その技術が高度になればなっただけ、習得には時間もかかるし、誰でも習得できるというわけではなくなってくる。
言語・文化といったものでさえ、既に消失してしまったものがたくさんあるわけです。
では、なくなってしまった、継承されなくなってしまった技術はもっとたくさんあるのでしょう。
かつて人が自分で出来ていたことの多くが、すでに失われていると思います。
私はフィルムで撮る写真が好きなので
この技術がいつまでも残っていくといいな、と思います。
便利さに押されて、手軽さに取って代わられて。
進歩がいけないのではなく、進歩した先には、豊かな選択肢が残されているべきです。
ここはデジタル撮影の方が向いてる、こっちはフィルムのほうがいいかも。そんな自由な選択が出来るようになっていったら良いのに。
採算が取れないからと、フジカラーではモノクロのフィルムAcros100の生産中止を決めたようですね。
残念なことです。
採算が取れなかったら、社名の元になっているカラーフィルムも製造中止にするのでしょうか?
ああ。脱線しました。
いろいろな、継承されなくなってしまった技術に思いを馳せて、読後感とさせていただきます。
おそまつでございました。
歳のせいか(←とりあえず、なんでもこれで言い訳する)
最近は文章を書き始めても途中で道筋を見失ってしまうことが多いですねー(涙